なぜヨガ人は"逆立ち"になるのか
日本女性ヘルスケア協会長 鈴木まり
7月17日は祇園祭など関西から西の地域では重要な祭りの日となっています。
これは、古代イスラエルに由来する重要な日で、記録にある大洪水、ノアの箱舟の救いの日に重なり、「祇園」は古代イスラエル人が“東の日出る国”を目指して大陸を渡った「シオン」が由来となっているというのも一説になっています。
また、古代イスラエル人が日本に渡ってきたという説に最も重要視されている日本の地は、日本の歴史に残る古事記とも重なる場所、四国です。
四国といえば、空海が修行道、結界を設計した「お遍路さん」が有名です。その中心にあるのが、日本霊山のひとつ、剣山(つるぎさん)です。
剣山は平家の歴史でも重要な場所であり、「平家の馬場」と呼ばれた記録もあります。
山深く緑が深く、湧き水で土の栄養も潤う剣山一帯はご神体となっており、古代から多くの人々の聖地として信仰の対象となっています。
そして、この聖地剣山も、7月17日の“シオンの日“に山頂で神輿を担ぐ「剣山山頂大祭」が行われています。
標高2000mほどの山頂までの登山の末に、30度くらいの急斜面を、神輿を担いで一気に駆け上がる危険が伴う祭りです。
その目的は「修行」となっており、登山だけでもしんどいのに、酸素の薄い山頂で重い神輿を担いで熊笹が生い茂る足元の悪い急斜面を、「六根清浄!」と皆で声を上げながら担いで上がります。
今年、私も初参加で、女性も担げる小神輿を担いで急斜面を駆け上がり、そして転げ落ちそうになりながらまた下るというのを体験させていただきました。
その場で出会った皆で協力して成し遂げる修行は、一体感が生まれなんともいえない達成感に満たされます。
これは現代では各大手企業で実施するマネージメント講習にも似た感覚でした。古代の人たちは修行を通して一体感教育をしていたのかもしれません。
この「修行」は各宗教、各国に様々な形でいまでも行われています。
例えば、仏教ですと日蓮宗の100日荒行や、真言宗などの坐禅があります。坐禅は私も小学生の1年生から3年生の毎年の夏休みに体験しています。
私は夏休みになると毎年子どもたちだけのグループでお寺に1週間泊まり込みをしていました。
たまたまPTAの方が御住職だったんだと思います。
共働きで忙しい両親は喜んで送り出していたと思います。
お寺では、早朝に起きてラジオ体操が終わったら境内の掃除をしてみんなで近所を散策して御堂で昼寝。朝と夕方には毎日坐禅の時間がありました。
少しでも動くと子どもであろうと和尚はバシッ!と警策(肩を叩いて注意を促す)をされるくので、怖がりの女の子は毎日泣いていました。
私は、最終日に全員が”プレゼント”としての警策のを除いて一度も叩かれませんでした。
坐禅を組み、
両手を合わせて、
糸が一本通るだけの隙間をつくって親指を向かい合わせ、背筋伸ばして軽く目を閉じる。
和尚の床を踏み締める音、外の川や風の音を、植物や古い建物のにおいを感じながら、脳内にピーーーーンと一本糸が張るような感覚がありました。
これは今でも衰える事ない感覚の記憶です。
何かに追われている時、脳が疲れている時、ストレスを感じている時に、
小学生の頃のこのピーーーーンとした記憶を思い出すと、一気に脳内が整理されていきます。つまり、ストレス処理がとっても得意なのです。
現代では、世界的に大ブームのヨガ。ヨギーニたちはやたらと逆さになっていますよね。
逆立ちのそれぞれのポーズは、少しでも集中力がぶれると首をケガする危険が伴いますし、ポーズをキープすることもできません。 ヨガにも危険がつきものですので、他のことに気を取られている場合ではないのです。
ヨギーニは行者、つまり修行僧であり、彼らの目的は神に近づくこと。
身体がよじれる苦しいポーズと呼吸法で、身体と心を鍛錬する修行です。もちろん、断食もありますし、ヨギーニはできたてのご飯を食べることも禁じられています。
あえて苦しい環境に身を置くことで、釈迦が歩んだ道のように、人の痛みを知れるようになる、苦しみの共有をすることにつながります。そして、「今」にしっかり集中していないと身を亡ぼすものです。
つまり、「今に集中しなさい」「今をきちんと踏み締めて生きなさい」
これが、結果精神鍛錬に繋がるわけですね。
修行による精神鍛錬とは、つまるところ、「今在ることを実感して、きちんと足元をふみしめて歩め」という事なのだと思います。
今この瞬間を大切に生きるという事が、自己成長をさせてくれる。そして、色んなことにチャレンジできる心を育ててくれる。
人生様々な新しい経験を積んで学んでいくということが、結果誰かの為になりますし、徳を積むことに繋がっていきますね。